シャンソン

Claude François Comme d'habitude いつものように

Je me lève
Et je te bouscule[1]
Tu ne te réveilles pas
Comme d'habitude
Sur toi je remonte[2] le drap[3]
J'ai peur que tu aies froid
Comme d'habitude
Ma main caresse tes cheveux
Presque malgré moi
Comme d'habitude
Mais toi tu me tournes le dos[4]
Comme d'habitude
Et puis je m'habille[5] très vite
Je sors de la chambre
Comme d'habitude
Tout seul je bois mon café
Je suis en retard
Comme d'habitude
Sans bruit je quitte la maison
Tout est gris dehors
Comme d'habitude
J'ai froid je relève mon col  [6]
Comme d'habitude

Comme d'habitude
Toute la journée
Je vais jouer à faire semblant [7]

Comme d'habitude
Je vais sourire
Oui comme d'habitude
Je vais même rire
Comme d'habitude
Enfin je vais vivre
Comme d'habitude

Et puis le jour s'en ira
Moi je reviendrai
Comme d'habitude
Et toi tu seras sortie
Et pas encore rentrée
Comme d'habitude
Tout seul j'irai me coucher
Dans ce grand lit froid
Comme d'habitude
Mes larmes je les cacherai
Comme d'habitude
Comme d'habitude
Meme la nuit
Je vais jouer à faire semblant
Comme d'habitude
Tu rentreras
Comme d'habitude
Je t'attendrai
Comme d'habitude
Tu me souriras
Comme d'habitude

Comme d'habitude
Tu te déshabillera
Comme d'habitude
Tu te coucheras
Comme d'habitude
On s'embrassera
Comme d'habitude

いつものように

朝起きて、きみの身体にぶつかる
きみは起きない、いつものように

きみにふとんをかけてあげる
きみが寒くないようにね。いつものように

きみの髪をなでる
そんなことしたくないのに、いつものように

でも、きみは僕に背をむける
いつものように

それから僕はすごく急いで服を着る
部屋を出る、いつものように

たった1人でコーヒーを飲む
また遅刻だ、いつものように

音もたてず、僕は家を出る
外は灰色だ、いつものように

寒いから、コートのえりを立てる
いつものように

いつものように、1日中
こんなふりをするんだ

いつものように、ほほえみ
いつものように、笑いさえする
いつものように、生きてるんだって
いつものように

そして、一日が終わると
家に帰る、いつものように

きみは外出先から
まだ戻っていない、いつものように

たった1人で、ベッドに入る
冷たく大きなベッドに、いつものように

涙がでるけど、隠すのさ
いつものように

いつものように、夜が来たときでさえ
こんなふりをするんだ

いつものように、きみが帰ってくると
いつものように、きみを待っていると
いつものように、きみが僕にほほえんでくれると
いつものように

いつものように、きみが服を脱いで
いつものように、ベッドにはいる
いつものように、僕たちはキスをする
いつものように
いつものように、僕達はふりをする
いつものように、愛し合っているふりをする
いつものように、僕たちはふりをする

 

My Way 〜 尾崎紀世彦 (English)

Claude François - My way (En anglais) + Paroles

クロード・フランソワと Comme d'habitude (My Way)

クロード・フランソワの生涯

Claude Antoine Marie Françoishs、1939年2月1日、エジプトで生まれた。フランス生まれの父、エメはスエズ運河で働いていた。母のルチア (シューフとも呼ばれた) はイタリアのカラブリア出身であった。エジプトでフランソワはドラムとヴァイオリンを含む楽器の演奏を学んだ。また、エジプトの音楽にも親しみ、それはのちに彼の作曲に影響を与えることになった。

1960年に彼はパリに移り、1962年にそこで彼は「ベル!ベル!ベル!」(エヴァリー・ブラザーズの歌のフランス語カバー)で、歌手としての最初の大きな成功をおさめる。1963年にはパリのオリンピアに初めて出演した。1966年には彼のステージのために4人のダンサーからなるレ・クロデット(のちに改名)が結成された。 1967年に歌手のフランス・ギャルとの仲が破局したのち、 フランソワはジャック・ルヴォー、ジル・ティボとともに、彼の代表曲のひとつ「Comme d'Habitude」(「いつものように」の意)を制作する。この作品をテレビを通じて知ったポール・アンカは、まったく新たな英語の歌詞をこの曲に与え、それは1969年にはフランク・シナトラが歌う「マイ・ウェイ」として世界的にヒットし、またエルヴィス・プレスリーや、後にはシド・ヴィシャスらによりカバーされた。 1967年にはフランソワは自身のレコード会社であるフレッシュ (Fleche) を立ち上げた。 1970年にフランソワはプロヴァンスの高速道路で、車のタイヤがバーストしたことによる事故のために顔に傷を負う。1970年代に入り、フランソワは自分の作品ばかりではなく、多くの英米の音楽市場でのヒットソングをフランスに紹介した。また逆に、フランソワの歌「愛しているから、わが子よ」は英語詞がつけられエルヴィス・プレスリーにより歌われた。フランソワのアルバム「涙の電話」(1974年)は発売後数週間で200万枚以上を売る、彼の生涯における最大の商業的成功作となった。フランソワは全部で500曲以上の歌を残した。

1978年3月11日、フランソワはパリの彼のアパートの部屋で、割れた電球で浴槽を照らそうとして感電死した。その日にはすでに彼の最後のシングル「アレクサンドリ・アレクサンドラ」のリハーサルをミシェル・ドリュッケールのテレビショー「日曜日の出会い」にむけて収録していたために、翌週のその番組はまるで彼が死後に再登場したかのようにみえた。フランソワの遺体は、エソンヌ県のダヌモワにある彼の別荘に葬られた。 2000年にはパリ16区・エクゼルマン街46番地にあった彼の最後の住まいが、彼を記念してプラス・クロード・フランソワと改称された。(Wikipeiaより)

「マイ・ウェイ」誕生秘話

ポール・アンカは、1967年のフランス人歌手クロード・フランソワのシャンソン「Comme d'habitude」(コム・ダビチュード)を、南フランスで休暇中に聞いて、曲の権利を交渉するためにパリへ向かった。2007年のインタビューでは、「いまいちのレコードだと思ったけど、何かを感じた」と語っている。そして交渉後に無償で権利を得た。2年後にフロリダでフランク・シナトラと食事をした際、アンカによれば、当時シナトラは自分の嫌いなポップ・ソングを歌わざるを得ない状況にあり「こんな仕事は辞めてやるよ。もううんざりだ、とっとと辞めてやる」と語ったという。

アンカはニューヨークへ戻ってから、元のフランス語の曲のメロディーを微妙に変更して、シナトラのために歌詞を書いた。

「いつかの朝、IBM製の古い電動タイプライターの前に座った時に『もしフランクにこの書いた詞を渡したら、彼は何て言うだろう?』と思いながら『今終わりが近い・・・』と始めた。雑誌をたくさん読んでると、すべてが『俺のこれ (my this)』、『俺のあれ (my that)』である事に気づいた。僕らはフランクの事がまさに『俺の世代 (my generation)』だと思った。僕はいつもは使わない言葉だけど、彼が話した内容を『食いつくし、吐き出した』。僕はラットパックの奴ら、自分の影に怯えてるにもかかわらずマフィアのように話すのが好きな連中と蒸し風呂のまわりにいたものだった。」

アンカは朝5時に曲を作り終え、「フランクにネバダへ呼ばれた。彼はシーザーズ・パレスに居て、『君のために特別さ』と語った。」アンカはさらに語っている。「僕のレコード会社は、僕が自分自身のためにこの曲を作った訳じゃない事を知ると怒った。でも僕は『ね、僕はこの曲を書く事はできるけど、この曲を歌う人じゃないよ』と言った。この曲を歌うのは他の誰でもなく、フランクにこそふさわしいのさ[。」なお、アンカはシナトラが録音した直後の1969年にこの曲を録音しており、1996年には映画『マッド・ドッグス』でガブリエル・バーンとのデュエットを、2007年にはジョン・ボン・ジョヴィとのデュエットを発表している。

フランク・シナトラのバージョンは1968年12月30日に録音され、1969年のはじめに発売された。アメリカでは総合シングル・チャートのビルボード・ホット100で27位、ビルボード・アダルト・コンテンポラリー・チャートで2位を記録し、イギリスでは40位以内に75週間もランクイン(1969年4月から1971年9月まで)する、とてつもない記録をつくった。75位以内ではさらに49週間もランクインしたが、最高位は最初にランクされた5位止まりだった。

この作品はフランク・シナトラの代表曲となったが、娘のティナによると、シナトラはこの曲を嫌うようになったという。「彼はこの曲が好きじゃなかった。あの曲はこびりついて、靴から離れないんです。彼はいつもあの曲は自分勝手で自己中心的だと思っていました」。
(Wikipediaより)

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